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指先のプロフィール

「幸坂かゆり」という人間の陰と陽

なだらかな狂気を感じさせるものが好き。

それきりで終わってしまうような、呆気ない子どもだましのようなショッキングなだけのホラーは嫌い。
                    

そのことを私は誰にも隠していましたが、今の私なら言える立場になれるだろうと思います。なぜなら自分が「狂気」を扱う者になったから。物書きの人間は絶えず狂気を内に秘め、生きている。少なくとも私はそういう人間だ。日常を歩き、笑い、喋りながら、いつも「書いて」いる。物を書くということと物を読むということを私は心から気に入り、尊いもののように感じるけれど、ひとたび、自分の尺ではあるけれど、くだらないと感じた物を読んだ時、私は人が変わったように冷淡になる。こんなもののために時間を割いたの。私はそんな書物を投げ捨てる。もう一ミリたりとも側に置いておきたくない。汚らわしい。そのような書物を売る、という行為も望ましくなく、私が所有していたもの。ただそう感じるだけで売女のように自分を呪い、体の一部が急激に収縮する。けれど、それとは逆に感銘を受けた書物に出会った時、強烈に恋慕し、思う存分愛でる。激しく心のうちで抱きしめる。愛し児のように。ずっと心に住まわせ、いつでも取り出して、舐め、咀嚼し、更に噛み砕く。細かく。細かく。

 

そんな私の心の奥を雑踏に紛れる私の心を道行く人は誰も知らない。

そして、私の目はいつ誰に吸いつくのか、私にもわからない。もしかしたら明日の貴方かも知れない。陰の世界の「幸坂かゆり」は残酷さに対してどこまでも寛容になれる。(2007/11/01)

◈ ◈ ◈

そして、

「陰」の部分があるなら、当然「陽」もあるでしょ、ということでそちらも語ってみましょう。「陽」の部分と言うと人を笑わせることが好きだという部分だろうか。とは言え、これもまた理屈っぽく、どかん、とウケを狙うのではなくてシュールな、判る人は判る、というのが好きです。……などと書くのは、それこそわかりやすい「陽」ですが実際、悲しいことが起こった時やピンチに陥ったりする時、泣くのが嫌いだ。同情されるような人間にはなりたくない。病気だろうと健康だろうと苦労を苦労と捉える人が苦手である。かと言って、プラス思考! ポジティブ! などと連呼するのも、逆に後ろ向きを隠しているようで首を傾げてしまう。


後ろ向きと「陰」が実は違うものであるように前向きが「陽」ということではないと思う。
どんなに裕福に暮らしていてもグチだらけの人間はいる。一文無しで、つぎはぎぼろぼろを着ていても(いや、今はそんな人も少ないであろうが)大笑いができる幸せな人間もいる。何より苦労が起こり、乗り越えた時、過去を語ると泣いてしまう人間に私はなりたくない。けれどもしも、友達が辛くて泣いてしまったら、それは私とは違う類であるだろうからその涙は受け止めたい。そんなふうに受け止めることのできることが私の考える「陽」である。

 

つまり。ぼぅっとしているのが私の「陽」なのではないだろうか。常に、ぼぅっとしてセクシーを気取る。そんな時が一番好きだ……って好みの話ではなかった(笑)この「(笑)」というのも大好き。あまり多用すると、嘘っぽいし見映えも悪いが要するに笑うことを大真面目に書くのが大好きなのだろう。しかし大真面目で真剣だけどあくまでも笑いにする。苦労なんかも笑いに替えてしまう。しかし、それにもセンスがいるだろうと思うので湿っぽくならない「陰」を含む「陽」が、きっと私なのだな、と思います。


「陰の部分」で書いたけれど「陰」の時の幸坂かゆりは、どこまでも残酷になれるが「陽」の時の幸坂かゆりは、どこまでも心で誰かを抱きしめることができる。いつまでもそれだけは忘れずにいたい。あ、何だか「陰」よりも書くことがない。やっぱり私、暗いのかな。うーん。(2007/11/28)

「目覚め篇」

それは記憶もおぼろげな幼少時代から。

元々左ききだった幸坂だったが直される。
しかし、奇しくもそこから絵を描くようになった。

絵を描くことが大好きな子どもで、ちょっとした「隙間」を見つけると、
紙の上以外でも、鉛筆以外でも、どこにでも絵を描いた。
チラシの裏、ダンボール、シールの余白、壁、アスファルトの上、
チョークで、十勝石で、軽石で、土で。
それを見ていた、当時パルプ工場に勤務していた父が、
本来なら処分される何にも書かれていない紙を、大量に持ってきてくれた。
最初に描いていた何の見本もない頃、私の描く人物の顔は長四角だった。

幼稚園になる頃には、とにかく気に入ったものを模写し続けた。
初めて、買った漫画は丘ゆり子先生の「カリブの女海賊」
内容も把握できないほど幼かったが、絵の美しさに魅かれたのだろう。
ひとコマずつすべて描き写して、同じものを作りたい、との激しい欲望に駆られた。

ある日、父が紙をまとめてホチキスで綴じ、本の形態を作ってくれてから、
鉛筆でコマ割ををし、セリフを書き入れるということができるようになる。
「ベタ」と呼ばれる背景の黒い部分も鉛筆で塗りつぶした。
小学生に上がり、初めてノートに触れて、そこにまた鉛筆で描くようになる。
その頃完成したものは「白い花の咲く季節」と「レナ」という2作。
学校でも私が休み時間に描いているのを見た担任の先生が、
みんなにも見られるように、と小説に挿絵のような描き方をすることを提案される。
できあがったのは「カリフォルニア・ランディーヌ」というタイトルで、
話はメロドラマだったり、SFだったりと、色んなところに飛んだものだったが、
3年生で転校することになった時、先生はその私の漫画に賞状をくれた。
今でもそれは大切な思い出の品として、残っている。

私が幼い頃は、どんな大人も漫画というと、すぐに否定していた時代だった。
そんな中で、唯一否定せず、絵を自由に描く場を提供してくれて、
何も見ていない振りをしながら、実は一番評価して見てくれていた先生には、
本当に感謝の一言では言い尽くせないほどだ。

それから、私は堂々と漫画を描いていこう、と思った。
どんなに時が経っても「豊富」や「将来の夢」「目標」といった項目には、
必ず「漫画家になる」と書いた。

◈ ◈ ◈


当時、読んで夢中になった漫画家(敬称略)

いがらしゆみこ、原ちえこ、鈴鹿レニ、高階良子、池田理代子、あしべゆうほ、
坂東江利子、大和和紀、岸裕子、夏よしみ、小林博美、など。

夏よしみ先生は今のようにレディースコミックに行く前の頃の作品しか知らないが、
登場人物や舞台設定が外国で、映画を観ているようなストーリー展開に、
当時の流行とは逆だったが、とても魅了された。
「粋」という言葉を当時は知らなかったが、その言葉が似合う漫画家さんだった。

小林博美先生は「夜の雪が優しい」の1作しか知らないが、
孤独だけれど明るい女の子を、優しく美しい男性の目線から描いた秀作。

鈴鹿レニ先生も「ミスナルシスは花柄模様」という、少しエッチな作品のみしか知らない。
しかし、その明るさ、どんでん返し、女性の強さをきちんと受け止める男性、
などの観点が、子ども心に理想だと感じた。


今、家にある作品は、この中の数点しかないけれど、
今でも探し出してもう一度手にしたい本ばかりである。
・・・しかし、あしべゆうほ先生の「悪魔の花嫁」は最終的にどうなったのだろう?
そこがとても気がかりだ。(2007/11/13現在)

「情熱の出会い篇」

この頃はまだ、絵を描くと言っても模写だけにとどまった。
また、使用している文房具も、鉛筆とボールペン、筆ペンのみだった。

私がペンで描こう、と思ったきっかけの漫画は、
池野恋先生の「ときめきトゥナイト」である。
こう言っては失礼なのだが、池野先生の初期の絵はお世辞にも、
上手とは言えなかった(と思う)
しかし、そこが親近感に繋がったのか、私にも描けるかも知れない、と、
初めて丸ペンなるものを文房具屋に買いに行った。
小学校6年生のことであった。

◈ ◈ ◈


漫画を描く背景には、常に人との出会いが含まれていると思う。
絵にときめきを秘めるようになった運命の出会い。

その1度目の出会いは、小学校3年生の時。
それはゴダイゴ、という5人組のロックグループのヴォーカリストである、
タケカワユキヒデ氏であった。
心密かに淡い恋心を抱いた幸坂は、
夜中(と言っても9時くらい)彼を主人公にして、
初めてのストーリー漫画を書き始める。
その初めての作品はゴダイゴのアルバム「カトマンズ」の中の曲、
「Wave Good Bye」に感銘を受けたものである。
それがこのプロフィール1回目に出てきた、
「白い花の咲く季節」という漫画である。「レナ」も同様。

この時は、ときめきがそのまま指から流れるように絵を描いた。
こんな勢いのある描き方ができたのは、若さと、まだ責任というものを、
負わずに済んでいたからだろう。
小学校低学年の頃は、タケカワ氏以外、目に入っていなかった、
と言っても過言ではない。


しかし、小学校高学年に入り、2度目の運命の出会いをする。
会ったこともないのに、勝手にタケカワ氏に心変わりを心の中で謝罪。
それは俳優、真田広之氏であった。
彼の役柄の影響か、時代劇をよく見るようになり、忍者ものを描くようになる。
未だに時代劇は、心のふるさとのような目で見ている。
真田氏の所属していた「ジャパン・アクション・クラブ(JAC)」に憧れるも、
絵ばかり描いてきた、運動オンチの幸坂に挫折が訪れるのは、目を見張る早さがあった。
同時代、友人を主人公にしてノートに連載漫画を描き始め、さまざまな風景に目を向ける。
友人がヒロイン、という前提であるのに、幸坂自身を登場させたため、
友人よりも目立つ、という失態を犯す。
大学ノート4冊にて連載終了。そのノートは友人にプレゼント。
これ以降、色んな人に頼まれ、誕生日などに自主制作ノート漫画をプレゼントするようになる。
その第1作目のタイトルは「死神」という縁起の悪いものであったのを記憶している。

そして中学校に入り、またしても運命の出会いをする。
いや、してしまったのだ。
もうそれは、すとん、と恋に落ちる感覚だった。
こうなるともう、心の中で謝罪など一切せず、ただただ惹かれるに任せた。
それはミュージシャン、大澤(当時「大沢」表記)誉志幸氏であった。
今まで長髪の男性ばかり描いてきたので、初めての普通の短髪に悪戦苦闘。
もみ上げがこめかみに来るなど、ありえない描写が続く。
スーツにネクタイなど、今までの趣向と異なったが、そこで意外な動きを見せる。

大澤氏を主人公にしたノート漫画のヒロインの名前に、
初めて「幸坂かゆり」という少女が出演する。
幸坂自身、これこそ運命、というほど初めて我を忘れるような、
信じがたい素晴らしいナチュラルハイな満足を得られた感慨深い作品であった。
その作品で初めて絵というものに「いとしい」という想いが生まれた。
しかし、これほどまで思った大事な作品を、同級生の一人が同じように気に入ってしまい、
無神経にも貸してしまう。
結果、明らかに同級生の元にあるのは判っているのに、返してもらえず、
おまけに、しらをきられ、数ヶ月何も手につかないほどショックを受ける。
以降、自省として、自分の描いたものでも誰にも貸さなくなった。

同時期、立ち直り後、そこまで絵が好きならば、と、
漫画雑誌「マーガレット」に投稿を始めるも、Aクラス止まり。
批評も散々で、甘くない世界だとつくづく思いつつも投稿の日々。

中学卒業後、進学せず就職。
漫画を描いていることと現実が激しくぶつかる。
仕事に時間を追われ、なかなかノート1冊も仕上げることができず、苦悩。

20代に入り、現実に恋人ができると描けないことに拍車がかかる。
激しいストレスと、家庭的状況から患い、仕事を退職。
その後、引越しと別れと職が見つからない三重苦に突入。しかし、再び原稿に向かう。
年代も考え、「マーガレット」から少しお姉さん向けの「Young you」に投稿を開始。
そこで1年に5作投稿するという無謀振りを発揮。
批評が来る前に次から次へと投稿したため、編集者を困らせるが、
「パワーはある」と褒められる。
しかし、何作目かを投稿後、批評に「若干、古さを感じる」との言葉があり、
年齢やセンスなどの壁にぶつかり、それまでは描くことしか考えなかったが、
本気で将来を考え出す。

自分らしい絵とは何か。
自分らしい世界とは何か。
そんな迷いの時、それまでの患いが悪化し、しばらく入院を余儀なくされる。

しかし、そこで思わぬ宝物を手にするのだった・・・。

◈ ◈ ◈

当時、読んでいたもの。(人物敬称略)
漫画家では、池野恋、いくえみりょう、きたがわ翔、上条淳士、
大島弓子、岩館真理子、小椋冬美、惣領冬美、川原由美子、
雑誌では空前のバンドブームもあり「PATI-PATI」「GB」「宝島」など。
女性誌では「an an」「オリーブ」何となく気恥ずかしいが「My Birthday」
エッセイや、小説をぽつぽつ読み始めるのも、この辺り。(2007/11/14現在)

「小説篇」

ずっと漫画しか頭になかった10代から20代。
そして30代に入り、私は初めて「挫折」というものを感じた。
諦めるのは、口惜しかった。
けれど、どうすることもできない。
漫画がだめなら、じゃあ何をすればいいのだろうか。
私は途方に暮れた。

そんな不安定な中での入院は、
まるで「少し休みなさい」と神様がくれた休日のような気がした。
実際、同部屋の人達は具合が悪いと言いながらも、
なぜかテレビを見に行ったりして、ほぼ部屋におらず、
私ひとり、ということがほとんどだった。

入院して何日目かの夜、私は夢を見た。

夢の中で、ひとりの男が飛行機を降り、空港に着く。
大きく深呼吸をして、着いたであろう田舎町のきれいな空気を吸う。
その傍らで、一組のカップルが喧嘩をしている。
怒鳴っているのは黒人の大柄な男。
女は、と言えばひるむどころか腕組をして聞いている。
そんなふたりに向かって、たった今飛行機を降りた男は、
持っていたカメラを向ける。
怒鳴っていた男は、それに気づいてカメラを持つ男に駆け寄り、腹を蹴る。
うずくまりながらも必死でカメラを庇う男。

蹴られながらも「いいと思ったものしか撮りたくないんだよ!」と口にする。

それまで、男が蹴られるのを、ふうん、という感じで見ていた女は、はっとする。
そして、殴っていた自分の恋人である男に「もうやめたら?」と言う。

「このひと、カメラが大事なのよ。あんたがあたしを大事だって言うみたいに・・・」

夢はそこで終わった。


私は無性に何かを書きたくなった。
それは絵ではなく、ひたすら字に変換して、感情を叩きつけるように、
夢の続きを、心に浮かぶまま書き殴った。
その日から私は入院中、書くことしかしなくなった。
そう言っても過言ではない。
そして、物語は進み、何度も遂行を重ね、
1冊のノートは夢から始まった物語で埋まった。
それは、俗に言う小説、というものだった。
漫画を描いていたら、あらすじを何行かにまとめて書く場合があるが、
そういえば、私はそのあらすじがとても長かった。
まるで、小説のように。

そうか。
私はもしかしたら今、漫画ではなくて、言葉を書きたいのかも知れない、
と、棒線や矢印だらけで私にしか解読できないであろう、そのノートを見つめた。

退院後、パソコンを手に入れ、憶えるまでに時間はかかったが、
そこで初めて「活字」というもので自分の字を見た。
そして、とある小説サイトに登録し、病院先で書いたあの物語を、
そこに移し変え、掲載した。
当時、コピペなど知らなかったので、すべて1から手書き(打ち?)だった。
途中、間違って消してしまっても、そんなものなのだろう、と思い、
何度も書きなおした。
その物語のタイトルは「HOME TOWN」

私にとっても、この小説がホームタウンそのもので、
ここからが始まりのような気がする。
主人公の男はカメラマンで「大沢修」という名前になった。
名前をつけると、どんどん登場人物に体温が吹き込まれ、
漫画を描くような、あの興奮と幸せに心が躍った。
私は、まだやっていける。そう思い、小さな小さな希望を拾った。

そんな訳で、漫画や出会い、そして小説へと辿ってきましたが、
それでも私はプロではなく、この先もどうなるかはわからない。
けれど「書く」ということは、これからもしていきたい。いや、したいのだ。
意地でも書くことを続ける。きっと私は書くことや読むことに、
恋をしているのだろう。それは永遠の片思いで、だからこそ焦がれる。
その想いは熱いけれど、成就しなくても構わず、書くことで充分、幸せなのだ。

そして、現在も書き続けている。自分のために。

◈ ◈ ◈


当時読んでいたもの、そして現在進行形(人物敬称略)
作家では山田詠美、瀬戸内寂聴、村上龍、よしもとばなな、
谷崎潤一郎、高村光太郎、澁澤龍彦、横溝正史、江戸川乱歩、
フランソワーズ・サガン、アニー・エルノー、アーウィン・ショウ、
エッセイや詩集、その他では、柳澤桂子、銀色夏生、
カール・グスタフ・ユング、R.Dレイン、

また、漫画を描いていた頃から画集が大好きでよく眺めていた。
それは現在も変わらない。(人物敬称略)
サンドロ・ボッティチェリ、ウォーター・ハウス、バーン・ジョーンズ、
ミュシャ、ウィリアム・ブーグロー、フリーダ・カーロ、など。

余談ですが、私は横文字を舌の上で転がすのがとても好きで、
外国のものや人物の名前を憶えるのが大好きです。
何かを読む時、若干囁くように声を出してしまうのがクセらしく、
聞く側は、耳障りらしい(笑)


以上、「指先のプロフィール」と題し、書いてきましたが、
本当にその中には人との出会い、というものが大きいです。
あくまでも書くことのプロフィールだったので、
その実際の出会いについては、極力省きました。
故に、友達がいないわけではありません、ということで筆を置きます。(2007/11/28現在)